ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『オデッサ物語』イサーク・バーベリ/中村唯史訳

渦巻く血潮を燃やせ

この世界のありとあらゆるできごとを、このうえなく陳腐で平凡な話も含めて、私は不可思議な物語に作り変えることができた。(p.109)

<<感想>>

最近私の中では20世紀前半のロシア文学がブーム。

ロシア文学ファンの中でも、プーシキンに始まり、チェーホフゴーリキーあたりでいったん終わり、そこから大きくソルジェニーツィンまで飛んでいる方も多いのではないだろうか。実際、1990年代末まで重版されていた「ロシヤ文学案内」(岩波文庫別冊、1961)には、ソルジェニーツィンさえ登場せず、『静かなドン』のショーロホフで終わっている。

ところが、21世紀に入ってから我が国でも次々と紹介されたように、ソビエト政権下で発禁にされたり、さらに酷い扱いを受けてきた作家は沢山居た。

特に私がその革命期以降のロシア文学に興味があるのは、一つにはやはりナボコフと比較をしてみたいという思いがある。もう一つ、現在ロシアの言論状況が厳しくなる中、その前の圧政下ではどのような文学が生まれたのか知り、あるいは戦争当事国についてもっと知りたいという思いがある。

今回取り上げるイサーク・バーベリはそうした関心にぴたりとはまる作家だ。現ウクライナオデッサ出身のユダヤ人作家。スターリン圧政下のソビエトにおいて、WWIIを見ることなく処刑されている。

まず、この『オデッサ物語』は短編集だ。表題と同じ「オデッサ物語」という短編集と、「私の鳩小屋の話」という短編集、そして「カルル=ヤンケリ」「フロイム・グラチ」の二つの短編が採録されている。前二者は、連作短編という色彩が強い。

オデッサ物語

「王」「それはオデッサでいかにして起こったか」「父」「"コサックのリュブカ"」の四篇。こちらの方が「私の鳩小屋の話」よりも成立時期が早いようだ。

いずれもオデッサを舞台にし、ユダヤ人のアウトローたちを主人公に据えた作品だ。雰囲気としては、西部劇的なアンチヒーロー譚に近い。西部劇というともちろんアメリカなわけだが、なんというか、ロシアっぽくないのである。

二日前ポートサイドから着いたばかりの汽船『プルターク』号から呼び寄せられた黒い肌の料理人が税関の目を掠めて持ち来ったのは、ジャマイカ産のラム酒の胴太の壜、コクのあるマデラ酒、ピルポント・モルガン農園の葉巻、それにエルサレム近郊産の柑橘類である。これぞオデッサの海の泡立つ波が岸辺に打ち上げし品々、これぞユダヤの婚礼の席でオデッサの乞食が時折ありつくことのできる品々であった。(p.18)

港湾都市ならではの、荒々しく雑然として、それでいて力強く豊かな雰囲気。ここで私のいう「ロシアっぽい」というのは、恐らくゴーゴリやその後継者によって形成されたイメージだろう。霧と白夜の街ペテルブルグを舞台にした、幻想と狂気の物語。本作はそれと好対照だ。温暖な多民族都市オデッサを舞台にした、情熱と義侠心の短編とでもいえば良いだろうか。

文体的な特質の面から二つ指摘したい。一つ目は、語りの位相について。

始めたのは私だった。

「師アリエ・レイブよ」と私は老人に話しかけた。「ベーニャ・クリクについて語り合おう・・・」(p.24)

「それはオデッサでいかにして起こったか」の冒頭より。

「私」が出てくるわけだから、一人称の物語で「アリエ・レイブ」は重要人物のように思える。ところが、実は「私」もアリエ・レイブもストーリーにほぼ関係が無い人物なのだ。つまり、役回りとしては、『千一夜物語』のシェヘラザードとシャフリヤールにあたる。いや、むしろ読み味としては、ホメロス過去記事】におけるムーサへの祈りに近い。短編全体として、叙事詩のような雰囲気があり、無時間的あるいは、伝説譚風の語りとなっているのだ。

もう一つは、語りの密度について。

この作家の文章は、密度が濃い。密度が濃いというだけでは説明になっていないが、対象にカメラが凄い勢いでズームして、またすぐにパンするような、そんなイメージ。昼ご飯何にしよう、なんて余計な思考が入ろうものなら、すぐに置いて行かれそうになる。それでいて、そのズームされた対象が、実はあまりプロットと関係なかったりするので、なかなか集中力を求められる。

ただ、一篇を読み終わると、そのカメラワークが実はいい塩梅に動いていたことに気づかされる、そんな上手さがある文体だ。

研究者・翻訳者の秋草俊一郎先生が、ブログでバーベリの初期短編を一篇公開してくださっているので、是非この独特のカメラワークを味わってみていただきたい。

4作で終わってしまうのが寂しく、もう3,4篇おかわりしたいような短編集であった。

・私の鳩小屋の話

「私の鳩小屋の話」、「初恋」、「穴蔵で」、「目覚め」、「ディ・グラッソ」、「ギイ・ド・モーパッサン」の六篇。

オデッサ物語」とは打って変わって、こちらは自伝的な連作短編となっている。で、自伝的といいつつ、内容がまぁ重い。そしてその重さに至る表現が上手い。

もうへたくそな比喩でしか表現しようがないけど、読み始めると、「はいどうぞ」とばかりに小箱を手渡されるや否や、小箱から伸び出た導火線に火を付けられて、「え、あ、これ、やべーやつじゃん!やばいやばい!」って思って導火線を見ているうちに・・・って、そういう緊張感を持続させてから蹴落とすような、そんな短編群。

作家の自伝的な作品だから、当然文学論めいた言及も多く、そういうところも面白い。

「・・・年を取るにつれ、おのずとうまくいうようになるだろう・・・君に欠けているのはね、そう、自然に対する感受性だよ。」・・・

「これは何という樹かね?」

私は知らなかった。(p.134)

最後の短編は、タイトル通りモーパッサンに言及したもの。モーパッサンへの目くばせがあるということで、バーベリが何を目指していたかに少し合点がいった。ウクライナ地域出身の短編の名手といえばゴーゴリだ。そして、そのゴーゴリにはETAホフマンからの影響があることが知られている。バーベリが目指したのは、そうしたドイツ風の幻想的なロシア文学なのではなく、フランス風の個人の生の力強さを描くロシア文学だったのだろう。

人がこの世に生を享けるのは、真に値する仕事と、つかみ合いの喧嘩と、それから愛を享楽するためである。(p.149)

この作家の力強い宣言は心強いが、物語はモーパッサンの狂死を描いた後、窓の外に立ち込めるペテルブルグの霧の描写で終わる。

・他二篇

いやー、もう数ページずつの短編だし、あまり詳しい言及は適切でないのだけれど、「フロイム・グラチ」ですよ。「フロイム・グラチ」ってのは「オデッサ物語」の登場人物で、その後日譚。叙事詩が上演されていた映画のスクリーンを突き破って、突如戦車の砲身が現れた、そんな作品とだけ書いておきます。永遠なんてないんだな。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆

 

キエフ出身の同世代

・ハリコフで育った同世代

<<背景>>

1925年頃発表。頃と書いたのは、文献によって表記が揺れており、よくわからないからである。著者バーべリの生まれは1894とあるから、ナボコフ/プラトーノフの5つ上、ブルガーコフの3つ下という計算になる。なお、感想で触れたゴーゴリは1809年生まれ、モーパッサン1850年生まれだ。作中ではその他、ゴーリキープーシキントルストイなどにも言及される。

作者はオデッサ生まれのユダヤ人であり、作中もユダヤ人に視点が当てられている。こういう作品を読んでて感じるのは、「帝国の辺境」としてのウクライナだ。服属しており、その国の民であるという意識はありつつも、多民族的であるとともに自立心があり、中央と文化的に均質ではない、とでも注釈すればよいのだろうか。

ところでオデッサといえば、プーシキンが若き日を過ごしたことでも知られる。そのオデッサ時代のプーシキンを描いた日本の漫画(「ブロンズの天使外伝 」)もあるようだ。

<<本のつくり>>

ロシア語文学の出版社でお馴染みの群像社より、「群像社ライブラリー」の1冊。このシリーズはちょうど新書版と同じくらいの版型で、名品佳品が揃っている。

翻訳は1995年の文章。「埒もない!」とか「なめらかな膚」とかちょっと古めかしくも感じる表現が頻出するが、これは恐らく叙事詩っぽい独特の雰囲気を感じさせるための敢えてのチョイスだと思われる。このため訳文全体として読みにくいということはなく、自然に読むことができた。

解説でバーベリの生涯の概観などを学ぶことができるが、同じ著者・訳者で松籟社から出ている『騎兵隊』*1の解説も詳しく、そちらも併せて参照した。

なお、p.51に「コッサク」(正しくは「コサック」と思われる)との誤記がある。

*1:絶賛積読中。