ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ネイティヴ・サン』リチャード・ライト/上岡伸雄訳

線をひかれた ここからキミ入れないと

映画館では、努力せずに夢を見られる。やらなければならないのは、座席の背もたれに寄りかかり、目を開けていることだけ。(p.27)

<<感想>>

怖い怖い怖い怖い。本作の第一部のタイトルはそのまま「恐怖」。

何が怖いって色々怖い。虐げられる恐怖、罪を犯さなければならなくなる恐怖、そして罪が露見する恐怖。続きを読むのが怖いけれど、むしろ怖いからページを繰る手が止められなくなるような、そんな作品だ。

本作のストーリーラインを簡潔に示すならば、罪と罰』風の倒叙ミステリであるといえる。1930年代、アメリカの黒人青年トマス・ビッガーは、とある理由により住み込み先の白人令嬢をうっかり死に至らしめてしまう。その黒人青年の心理と取り巻く社会とが丹念に描かれている。

キング牧師マルコムXの活躍した1950年代より早い1940年代の作品であるから、黒人文学の先駆的な作品という位置づけのようである。

ただ、そうかといって、今日的なBLM運動などと結びつけて読んでも広がりは乏しいように思う。むしろ、黒人文学という枠を取り去って読んだときに顕れる、本作の普遍性を示してみたい。

・シンプルかつ平易な文体

さて、内容の話に踏み込む前に、文体的な特徴に少し触れておきたい。

冒頭に書いたとおり、本作はまずもって強力なページターナーだ。そしてそれを支えているのが、シンプルかつ平易な文体である。文体的なチャレンジをする気配はなく、まるで19世紀の小説が20世紀に再臨したかのようだ。

いわゆる神視点の叙述で、一文は短く*1、会話文が多め。恐らく中学生くらいでも苦も無く読み通せるのではないだろうか。

ただ、それは必ずしも文章が稚拙だというのとも違う。例えば、本文中度々登場する「壁」あるいは「白い壁」のモチーフ*2

でも、俺に何ができる?この質問を自分に問いかけると、いつでも心が真っ白な壁にぶち当たり、考えられなくなる(p.25)。

いうまでもなくこれは白人たちによって作出された社会的障壁の隠喩でもあり、とても効果的に機能している。あるいは、訳者解説でも指摘をされていたが*3、序盤の何気ないシーンが、作品全体を貫くイメージを象徴していたりと、シンプルながら巧みな技も駆使されている。

・一級の「心理学者」として

冒頭、この作品の筋書きはドストエフスキーの『罪と罰』に似ていると書いた。ドストエフスキーといえば、かのニーチェが「私が何ものかを学びえた唯一の心理学者である。」と評している*4。だが、私に言わせればリチャード・ライトこそ、ドストエフスキーを超える一流の心理学者である。

斧が犯行に用いられたり、第一の殺人に関連してもう一つの殺人が起こるなど、他にも類似点が見られるため、もしかするとライト自身、『罪と罰』を意識していたのかもしれない。ただ、最も決定的に違うのは、犯行に至る動機、あるいは犯罪が発生するメカニズムの点である。

罪と罰』では、インテリが確信犯的に罪を犯すわけだが、本作では、虐げられた下層階級の主人公が、恐怖に支配され、罪を犯さざるを得なくなる。

そして、そこに至るまでの下層階級の心理の描写が実に見事である。一般に、報道や供述調書によって描き出される「動機」というのは、あくまで犯罪を起こさなかった人の論理で再構成された「動機」に過ぎない。そこでは単に財産犯が貧困によって、粗暴犯が怨恨によって説明される。しかし、犯罪は本当に貧困や怨恨によって起こったのか?その貧困や怨恨はなぜ生じたのか?貧困や怨恨があったとして、彼は刑罰を恐れることはなかったのか?

この点、ライトは、社会から隔絶された人々がいかなる感覚をもって社会を捉えているかを、実に生々しく描写する。

例えば、冒頭、主人公ビッガーが殺人を犯す前に、仲間内で強盗を計画する場面がある。ここでは、実際に強盗をしなければならなくなる恐怖と、仲間内での自身の体面・プライドとのせめぎあいが実に鮮やかに描き出されている。人は、些細な体面の為であれば、全くやりたくなかった強盗をやらざるを得なくなるのだ。

この場面は同時に、社会的資源を奪われた人々は、友情という正常な人間関係さえ構築することが出来ずに、連帯することさえ奪われていることも示している。なお、中盤でビッガーと恋人との関係も描写されるが、ここでもやはり恋人であるのに正常な愛着関係が形成されていない様が描かれる。

あるいは、ビッガーが初めて白人たちと交流する場面も素晴らしい。ここでは、権力や社会的地位を巡る心理学的、または社会学的な洞察が示されている。いずれも、持てるものが持たざるものに行使するイメージを持たれているが、実際にはそうではない。権力も社会的地位も、持てる者は持っていることさえ意識せず、反対に持たざる者がその不具備を絶えず意識させられるようにできているのである。

さらには、白人による黒人への慈善活動が、反対にそうした格差を固定化する機能を有しうることまで仄めかされている。

 

こうした著者の犯罪とその発生機序に対する見方は、犯罪は属人的な要素からのみ生じるのではなく、それが行われる土壌から発生しているのであると要約することも出来るだろう。そしてこうした洞察は、その後の犯罪論における犯罪機会論と犯罪原因論の生成をも予見させるものである。

そしてある意味、彼自身も、あの娘の死が偶発事ではないとわかっていた。それ以前にも、何度も殺してきた――ただし、ほかの機会には、犠牲者がそこになかったのだ。(p.192)

・著者の意図?

実は、ここまで書いてきた著者の洞察の大部分は、作中の第一部と第二部とで描かれている。第三部では、拘束されたビッガーが起訴され、裁判にかけられるまでが描かれる。

学校の試験ばりに、「作者の意図」をくみ取るのであれば、この裁判における弁護士の長い長い弁論シーンがクライマックスなのだろう。しかし、このシーンは物語的に見ても退屈だし、内容的には当時の黒人の権利向上を謳うもので、今日的な意義は限定的だ。

著者の意図した部分ではなく、むしろ意図せざる部分こそ普遍的な価値を有するという点で、この作品は実に文学的である。

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆☆(強力なページターナー!)

 

・同時期の過剰な文体の作品

・似たようなプロットの作品が読めます

<<背景>>

1940年発表。

アメリ公民権運動が1950年代、モンゴメリー・バス・ボイコット事件が1955年であるから、黒人による抵抗運動と捉えると、極めて早い時期の作品といえる。

本文で取り上げた『罪と罰』は1866年の作品。

なお、先日取り上げた世界文学アンソロジー所収のアズィズ・ネスィン「神の恵みがありますように」も、周囲の環境によってモンスター化した主人公が、結末部で弁護士により・・・というプロットで、本作にかなり似ている。読み比べてみると面白いかもしれない。同作は1959年発表の短編集に収録されたそうだ。

<<概要>>

「恐怖」「逃亡」「運命」の三部構成。

部の下に区切りはないが、行アキが挟まって場面が転換されることがある。

基本的に神視点の三人称で進行するが、視点位置は往々にして主人公ビッガーに接近している。ビッガー自身も気づいていない心理の機微を巧みに描出していると言っていいだろう。

他方で、終盤ビッガーは部分的に冤罪に問われることになるのだが、読者はそれが冤罪であることを知ってしまっているため、その部分は神視点の限界、あるいは濫用ともいえる。

この他、途中までビッガー自身も重要な問題と捉えていたはずの犯行態様の一部に関する問題が、いつの間にかうやむやになるなど、若干興ざめの部分もある。

<<本のつくり>>

1970年代初頭に早川書房から出た既訳があったようだ。今回読んだのは2023年新訳の新潮版である。なお、原著の1940年版も、1970年代の早川版も、いずれも編者の要請により一部カットされたバージョンだそうだ。今回の新訳は無削除版であり、序盤の重要なシーンなどが復活しているという。

最新の翻訳ということだけあって訳文は読みやすい。もっとも、訳文を読んだ限り、恐らく原文からして平易なように感じる。

注は割注方式でこちらも読みやすい。ただ、特別難解な作品ではなく、注が必要と思われる箇所も、実際に付された注の数も多くはない。

訳者あとがきは長くはないが、作品論・作家論ともに論じられ手堅い内容である。

*1:もちろん訳文を読んだ限りだが、特別原文を切ったのではないと思う。

*2:このほか、白い雪が降り積もるシーンなども

*3:このほか、叩き潰されるネズミのイメージも重要だ。

*4:『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」四五より、ちくま学芸文庫版p.138