ウラジーミルの微笑

池澤夏樹=個人編集 世界文学全集の全巻読破を目指します

『失われた時を求めて』第4篇「ソドムとゴモラ」マルセル・プルースト/吉川一義訳

過ぎ去った季節に置き忘れた時間を

おびただしい数の青いシュジュウカラが飛んできて枝にとまり、花のあいだを跳びまわるのを花が寛大に許しているのを目の当たりにすると、この生きた美も、まるで異国趣味と色彩の愛好家によって人為的につくりだされたかに見える。しかしこの美しさが涙をさそうほどに心を打つのは、その洗練された芸術の効果をいかに極めようと、やはりこの美が自然のものと感じられ、このリンゴの木々が農夫たちと同じようにフランスの街道沿いの野原のただなかに立っていると実感されるからである。やがて太陽の光線にかわって不意に雨脚があらわれ、あたり一面に筋目をつけ、その灰色の網のなかに列をなすリンゴの木々を閉じ込めた。しかしその木々は、降りそそぐ驟雨のなか、凍てつくほど冷たくなった風に打たれながら、花盛りのバラ色の美しさをなおも掲げつづけていた。春の一日のことである。(第8巻、p.405)

<<感想>>

第1篇から感想を書き連ねてきた『失われた時を求めて』も、この第4篇「ソドムとゴモラ」でいよいよ折り返し地点である。

ここまで読み進められた方であれば、本篇で挫折するということはもうないだろう。

失われた時を求めて』の記事では、これまで感想というよりむしろ、読みどころ紹介といった体裁で書き進めてきた。今回もこれに沿って、私が気づいた読みどころを挙げていきたい。

 

まず、これまでと同様、本篇の構成を再確認してみよう。

第4篇「ソドムとゴモラ」は、「ソドムとゴモラ一」と「ソドムとゴモラ二」の二部構成からなる。岩波文庫版では、第8巻と第9巻とに収められている。

それぞれの部のうち、第一部では章分けがされていないが、第二部は4章に分かたれた上、「心の間歇」と題された幕間劇が挟まれている。実は、二部構成といいつつも、第一部はわずか68頁しかない。これは、第二部のほとんどどの章よりも短い。まとめると、以下のとおりとなる。

 第一部「ソドムとゴモラ一」

 第二部「ソドムとゴモラ二」

  第一章、心の間歇、第二章、第三章、第四章

また、第二部第二章のちょうど中間あたりに登場するアスタリスクも見逃せない。

訳者によると、「章分け以上の区切り」を示しているという。このため、岩波文庫版では、このアスタリスクをもって、第8巻と第9巻とを分けている。

ただ、純粋に物語の舞台で区切るのであれば、第二部第一章と心の間歇との間(第8巻p.340)に線が引かれる。ちょうどここを境に、物語の舞台がパリからバルベックとその周辺に移るからである。

 

 

1.舞台が移る

舞台が移る、といえば、「移動」という主題は本篇の重要な特徴の一つである。

まず、物語の舞台そのものがパリから海辺のリゾートへと大きく移動する。

また、本篇では複数の「移動手段」が登場する。第4巻でも登場した小鉄道に始まり、馬車に自動車、果ては当時最先端の飛行機までもが顔をのぞかせるのである。

「わたし」が涙を流して感動する飛行機の登場は、後の重要な伏線となっている。また、自動車を駆る運転手もまた後の伏線となる人物である。そして何より、海辺のリゾート周辺を走る小鉄道それ自体が、本篇後半部の主要な舞台となっている。

続篇の先取りになるが、自室からほとんど「移動」をしない第5篇とは極めて対照的である。

 

2.心の間歇

本篇の読みどころといえば、何よりも「心の間歇」が挙げられる。

この部分は多くの読者の胸を打つ。長大な『失われた時を求めて』全篇の中で、印象に残った場面の人気投票でもしたら、「心の間歇」はきっと上位に食い込んでくるだろう。

バルベックのグランドホテルに到着した日の夜、「わたし」は靴を脱ごうとハーフブーツのボタンに手をかける。その瞬間、唐突に一年以上も前に亡くした祖母の死、祖母の喪失を感得する。

全篇を通じておそらくマドレーヌに次ぐ屈指の有名なシーンだが、これも「心の間歇」に含まれる1エピソードである。

そもそも、「心の間歇」という標題は、『失われた時を求めて』というタイトルが決まる前、本作全体のタイトルとして予定されていたものだそうだ。

「心の間歇」に見出せるのは、ハーフブーツの場面に代表される喪失や記憶の主題だけではない。「シカ、シカ、フランシス・ジャム、フォーク。」の一文で読者の記憶に楔を打つ睡眠と夢の主題も興味深い。

そして何より私の一押しは、「心の間歇」の掉尾を飾る花盛りのリンゴの木々と驟雨の描写だ。冒頭に引用をしたが、ただ一言、美しい。

 

3.同性愛

「心の間歇」がいかに美しく感動的だからといって、こればかりに目を奪われてはいけない。

本篇のタイトルは「ソドムとゴモラ」である。プルーストのいうソドム=男性同性愛と、ゴモラ=女性同性愛が重要なテーマのひとつであることは疑いえない。

また、このテーマは単に作者プルーストの同性愛的嗜好が滲出したに過ぎない底の浅いテーマというわけではないだろう。

このテーマを考察する上でまず見逃せないのが「視線」の問題である。本篇は、シャルリュスがジュピアンを見初めるのを窃視したソドムの場面で幕を開ける。そして、ヴァントゥイユ嬢と女友達とがモンジュヴァンで官能的な笑い声をあげるのを窃視したゴモラの場面で幕切れを迎える。同性愛という極めて私秘的な営みは、視られることによって、はじめて主題にのぼるのだ。

そして、ソドムの描写とゴモラの描写との対比も興味深い。

シャルリュスの同性愛については、作者の視点で、それが認識可能な事実であるものとして描写されている。これに対し、アルベルチーヌの同性愛については、語り手の視点で、真実が何かを認識しえない疑惑として描かれているのだ。

かように、同性愛のテーマは、それを見る視線の問題や、視るものの認識の問題と分かちがたく結びついている。

 

4.ドレフュス事件

真実を認識しえないのは、アルベルチーヌの嗜好だけに限られない。

前篇から引き続き本篇でも取り上げられるドレフュス事件のテーマは、まさにこのプルーストの不可知論的な視座を示している。

・・・政治上の真実にたとえさまざまな文書が含まれているとしても、その文書がレントゲン写真以上の価値を有することはめったになく、・・・実際にはそのレントゲン写真はたんなる診断の一要素として提供されるだけで、医者はそれにほかの多くの要素も加味したうえで推論し、そこから診断をくだすのである。・・・ドレフュス事件に話をかぎれば、・・・明々白々たるできごとが生じたときでも、ただちにこのできごとは、ドレフュス派の大臣たちと、みずから偽書を発見して訊問をおこなったカヴェニャックやキュイニェとによって、まるで正反対の解釈をくだされたのである。(第6巻、p.157)

大臣たちが入り込む迷宮入りの事件と、「わたし」が入れ込む恋の迷宮とは、実は同じ建材で出来ている。本篇では、この迷宮を巡って、頑なに真実の存在を信じる者(スワン)や、変節する者(ゲルマント大公、サン=ルー)を、皮肉な筆致で描いている。

プルーストの見方によれば、真実とは、さながら砂のように、強く掴もうとすればするほど、指の間からこぼれ落ち、失われていくものなのだろう。

 

5.土地の名、人の名

本篇において、大事な「失われていくもの」がもう一つある。

まず、本篇でクローズアップされるべき主題のひとつとして、系譜・継承の問題が挙げられる。

シャルリュス男爵は、自身が継承してきた爵位を誇る。

他方で、たとえば、サガン大公(8巻、p.273)は、アンシャンレジーム期の何人もの先祖の「顔」を継承している。また、爵位の継承よりも「はるかに根の深い即位」として、「わたし」の母が祖母になるように、生者が死者を継承する話題にも触れられる(8巻、p.378)。

このように、名あるいはレッテルに過ぎない爵位の継承と、血肉それ自体の継承とが、対比的に描かれているのである。

そして、「爵位」の継承と「血肉」の継承の対比のうち、前者こそが、「失われていくもの」の一つである。

 

これを示すのが、地名の語源を語るブリショの駄弁である。地名の語源の話題は、単にブリショという登場人物のマニアぶりとその滑稽さを示すためだけに登場するのではない。

ブリショによる語源の話題は、シャルリュスによる家名自慢の話題と交互に差し挟まれている。すると、前者によって後者を相対化する意図があることは明らかであるように思われる。

実際、シャルリュス自身は、自身の爵位を極めて重大なものと考え、あるいは、重大なものと考えられて然るべきと考えているが、既にそのコードは、ヴェルデュラン夫人にも(9巻、p.214)、モレルにも(9巻、p.227)解読できない。

シャルリュスの名も、やがては風化し砂となり、ソルボンヌの教授の講釈によってはじめてその意味が解き明かされる遺物となりつつあるのである。

 

6.主題の交差点

こうして、本篇に登場する様々な読みどころを書き連ねていくと、いくつかの主題が交わる交差点があることに気付く。

例えば、「爵位」の継承と「血肉」の継承の対比という観点から、ソドムの主題を眺めると、そこにはトビトとトビアの親子が立っている(9巻、p.494)。シャルリュスは、「爵位」の継承の権化であるが、「ソドム」の住人であるため、子をなし、「血肉」の継承をすることができない。さにあればこそ、自身が庇護する青年モレルを、自身の子になぞらえ、「ハレルヤ!」を叫ぶのである。

あるいは、ソドムとゴモラの対比という観点から、「爵位」の継承者シャルリュスを眺めると、そこには継承するものを持たない根無し草であるアルベルチーヌが立っている。

こうして、根なし草であるというアルベルチーヌのイメージが像を結ぶと、移動の主題を彩る小鉄道も、自動車も、飛行機も、みなアルベルチーヌとセットで現れていたことに気付かされる。

 

このように、主題と主題が、イメージとイメージがぶつかり合って弾けるその瞬間を感じることが、本作を読み進める大きな魅力の一つである。

 

 

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第8巻、p.405より「リンゴの花」*1

 

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前回同様、記述済の背景や本の作りへの言及は省略する。

 

*1:Karin HenselerによるPixabayからの画像