誰も触われない二人だけの国
太陽よ、わたしをフライデーに似せてくれ。笑いで明るくされ、まったく笑うのに適しているフライデーの顔をわたしにあたえてくれ。(p.175)
<<感想>>
期待していた作品。そして期待通りの作品。今回は褒めるでぇ!
昔から、それこそ中学に上がるか上がらないかの頃から、好きなんです、この手の作品。この手のってのは、例えば『ロビンソン・クルーソー』とか、『十五少年漂流記』とか、『蝿の王』とか、『漂流教室』とか、実はもう少し幅広くて、『ガリヴァー旅行記』も入れば、『リヴァイアサン』とか、『市民政府論』とか、『社会契約論』*1も含む。
本作もその手の作品。『ロビンソン・クルーソー』【過去記事】の二次創作的作品をロビンソナードと呼ぶけれど、まさにそうしたロビンソナードの一作である。
ロビンソン・クルーソーがわからないという方は、まずテキトーにぐぐってあらすじを確認していただくとして、本作は『ロビンソン・クルーソー』をフライデーの側から読み替えた作品といわれる。
あー、はいはい、あれね、ポスコロ、乙。と思った方ちょっと待って!!本作は本家『ロビンソン・クルーソー』の単純な価値転倒でなければ、政治哲学とも異なる、全く別の位相の哲学の物語なのだから。
1.文学
大枠のあらすじは本家『ロビンソン・クルーソー』とそう大きくは変わらない。名前も同じロビンソン・クルーソーがチリ沖の孤島にひとり漂着する。助けは絶望的で、島を開発して一人暮らす。やがて一人のインディオが島に現れる。ロビンソンは彼をフライデーと名付ける。そしてフライデーを従者として、さらに島の開発を進めていくが・・・
物語的な視点から見ると、トゥルニエがどの部分をどのように置き換えたのかがまず気になるところが、それより先に強調したいのが、置き換えていない部分についてだ。本作は、この頃の文学作品にしては珍しいくらい素直に書かれている。19世紀的と言っても良い。文体はシンプルだし、時系列の進行も単線的である。過剰な比喩や仄めかしもない。
従って、作品を文学的な視点だけで見るとやや凡庸である。ただ、後述の通り哲学的な省察が高度かつ難解で、適度に軽やかなプロット、リーダビリティの高い文体がほどよくマッチしている。カフェオレを作るのにちょうどいい塩梅のコーヒーといった感じでである。
2.哲学
で、哲学である。ロビンソナードというと、昔から倫理や政治哲学との食い合わせが良い。このため、私もそういった物語を期待して読んでいた。しかし、実は本作の哲学は、バリバリの大陸系である。私が気づいた範囲でも、ヒュームとニーチェに対する明確な目くばせがあり、たぶんユングも念頭にあり、そしておそらく最も重要なのは、ベルクソンの生の哲学だ。え、それってドゥルーズじゃん、と思った方はご明察。作者トゥルニエとドゥルーズは同級生で友人という関係。全集版には載っていないが、岩波版にはドゥルーズが本作に寄せて書いた論考「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」が採録されているそうだ。
本当はこうした哲学者たちの思考を踏まえて本作を読解すれば面白いのだろう。しかし、もちろんそんな力量は私にはない。そして、トゥルニエ自身も、論ずるかわりに物語の中で示そうとしたために、文学という形式を選んだに違いない。
そこで以下では、トゥルニエの哲学の欠片を作品に即していくつか掬い上げてみたい。
・西暦、時間
この四角な柱の側面に私は毎日ナイフで刻み目をつけ、七番目ごとにその刻み目をほかのものの二倍にした。そしてそのまた二倍の長さの刻み目を毎月の第一日目につけた。こんな具合にして週、月、年という時間を算定する。つまり、暦をつける方法をさだめたのである。(『ロビンソン・クルーソー(上)』(岩波文庫)p.118)
そこで彼は、これからは、島のどれかの木に毎日小さな刻み目をつけ、三十日ごとに×印をつけようと心に誓った。それから、再び<脱出号>の建造に没頭しながら、この誓いのことを忘れてしまった。(p.27)
最初にして大きな違い。ロビンソンは西暦を刻み、新生ロビンソンは西暦を失う。西暦、それは時の記録でもあると同時に、西欧の記憶でもある。また、その成立からして、キリスト教的な背景もある*2。また、物語外的な視点から捉えると、物語空間を現実の歴史から遊離させる効果がある。
やがて新生ロビンソンは、水時計を発明し、島内で時間を管理するようになる。しかし、面白いのはその先だ。ロビンソンは、その水時計を一時的に止めるという行為にでるのだ。
かくて、この島・・・でのロビンソンの絶対的な権力は時間を支配するまでになろうとしていたのだ!(p.76)
この「時間が止まった」状態での地の文の描写も面白い。
つまり、事物は・・・それぞれ自己の本質から脱落してしまい、そのすべての属性を開花させ、それ自体の完成以外には何の証拠も探すことなく、ありのままに、それ自体のために存在していたようだった。(p.76)
ここにもやはりキリスト教的あるいは西洋的な時間観念、つまり創世から始まり終末に終わるような、因果律に支配された時間観念と、そうした時間軸を前提にした事物の存在様式からの脱却が読み取れる。
・性、胎内回帰
続いては性の問題。旧ロビンソンでは時代背景もあり全くスルーされているが、本書ではバッチリテーマになっている。しかし、その取り上げ方は普通じゃない。『ロビンソン・クルーソー』を取りあげた際に、同作が髭の紳士たち*3に凌辱されたと表現したが、まさか今度は島ごと犯されるとは思わなかった。
しかし、その話の前に登場するのが、母体回帰のイメージである。新生ロビンソンはある日、島の洞窟の奥深くにある窪地へと入っていく。自分の身体と同じだけの大きさしかないその窪地に、ぴったりとはまり込む。
こうして彼は永遠の幸せの中に宙ぶらりんになっていた。(p.86)
新生ロビンソンは島の胎内から再出生を果たした後、今度はその島を犯すのである。
・共時性、永劫回帰
物語の終盤、フライデーは「アンドアール」という巨大な雄山羊を狩る。そしてその頭蓋から、エオリアンハープを作り出す*4。エオリアンハープとは、自然に吹く風の力により音を鳴らす弦楽器だ。この楽器の描写は、まさに因果律と対比させられる共時性を示している。
・・・アイオロス琴はただ四方の風を歌わせる本質的な楽器であるだけではない。奏でる音楽が、時間の中に広がる代りに、瞬間の中にそっくり刻まれる唯一の楽器でもある。・・・風が楽器に挑むととたんに、いちばん低い音からいちばん高い音まで出して爆発する<瞬時の交響楽>が作曲されるのだ。(p.182)
そして物語の最終盤、新生フライデーは創世と終末の物語を捨て、太陽のもと、永遠の生を感じることになる。
彼にとっては毎朝が歴史の最初の始まり、絶対的な始まりだった。太陽=神のもとで、スぺランザ島*5は、過去も未来もなく、永続的な現在の中でふるえていた。
このように、哲学的な含意に富んだエキサイティングな物語であった。取り上げた以外にも、冒頭の引用箇所のような「笑い」のテーマ、ドゥルーズが取り上げたといわれる「他者性」のテーマ等も非常に興味深い。本作の魅力は、こうした難解と思われがちな哲学を軽快な物語の形で読ませてくれるところにある。
お気に入り度:☆☆☆☆
人に勧める度:☆☆☆☆(哲学好き向け)
・本家本元
・フランスのイケてる哲学小説
・『ジェイン・エア』の読み替えはこちら
<<背景>>
1967年刊行。なお本書の底本となっているのは1972年のエディションだ。この間、子ども向けに翻案されたヴァージョンが作られたそうだ。作中でも印象的な「役割交替遊び」の場面が、その際に子どもから寄せられたフィードバックをもとに作られているようで、とても驚いた。
ちなみに、ドゥルーズの著作の執筆年はそれぞれ、ヒューム論(1952年)、ニーチェ論(1965年)、ベルクソン論(1968年)である。
本家『ロビンソン・クルーソー』は1719年に発表されている。作中、旧ロビンソンが島に上陸したのが1659年9月30日、新生ロビンソンはちょうど100年後の1759年9月30日に島に漂着したことになっている。旧ロビンソンが島を脱出するまでの期間と、スぺランザ島が再び西暦に接続されるまでの期間も、同じ28年2か月と19日である。
なお、サイードの『オリエンタリズム』は1978年であるから、本作のが先に書かれている。
また、フランスの哲学青年であるニザンが『アデン、アラビア』を書いたのは1931年のことである。
<<概要>>
全12章構成。12章の外側に、章番号も「序」とも付されない前文が8ページほどある。前文は漂着前の船内の場面で、物語本体はぴったり島に漂着したところから始まる。
基本的な語りの構造はシンプルで、三人称視点でかつ、視点位置がロビンソンに固定されている形式だ。ところどころ、「航海日誌」という形式で、新生ロビンソンが書いたとされる文章が差し挟まれる。この航海日誌部分は、かなり哲学度の高い文章で難解である。
旧ロビンソンもこうした作中作を作るが、それと比べた新生ロビンソンの航海日誌の特徴は、航海日誌でありながら日付が付されず、時間から遊離している点である。
<<本のつくり>>
訳文は1982年のものだろうか。一部で誤訳も指摘されているが、それ以前に、句読点の打ち方や仮名の送り方、漢語と和語の使い分けなど、細かい文章作法が好みではない。
訳者の経歴を拝見した限り、哲学の術語をその文脈に従って訳出されているのかも若干不安である。
本全集に採録された際、訳者はすでに亡くなられていたようであり、解説はまた別の方が書かれているが、こちらの内容は明快だ。