ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『ナボコフ全短篇』②「独裁者殺し」ウラジーミル・ナボコフ/秋草俊一郎他訳

夢にまで見た淡い夢

前回の「ナボコフの一ダース」相当の13作品に引き続き、今回は4つの「一ダース」から「独裁者殺し」相当の作品を取り上げたい。

内容としてはロシア語時代の作品が12個に、英語時代の「ヴェイン姉妹」を加えた構成となっている。勢い、目玉はどうしても「ヴェイン姉妹」ということになるだろう。ロシア語時代のものは、正直「ナボコフの一ダース」相当のものの方が良作が多いように思われる。しかし、記憶をテーマにした作品やメタフィクショナルな作品など、見るべきところも多い。そして、特に注目すべきなのは、テクストの外の世界との関連性だ。これをやるとVN先生のお気に召さないのは百も承知だが、本人が狙ったものも、意図しなかったものも、私が勝手に読み込んでいるものもある。

また、VNには珍しい、音楽が登場する作品も二つ含まれている。この他、やたらと不倫が登場するのは、先生お好きな題材だったのだろうか。

前回同様、手元で読める範囲の各種文献にもあたることにし、参考文献情報も記載している。やはり、こうした文献が書かれているのも、人気の作品や、面白い作品に集中している。今回面白かったのは「恐怖」を扱った諌早先生のもの、「ヴァシーリイ・シシコフ」について論じた杉本先生のもの、そして「ヴェイン姉妹」を扱った鈴木先生のものだ。本文にも書いたとおり、「ヴァシーリイ・シシコフ」、「ヴェイン姉妹」はテクスト外的な物語の方が面白いくらいなので、ぜひご一読をオススメしたい。

今回も、特に理由がない限り作者の名前をVNと略記することとし、気に入った作品には+を、特に好きな作品には◎を付している。

「偶然」(1924)

ルージンは、ベルリンーパリ間の国際寝台列車の食堂車で給仕をしている。彼には5年ほど前に生き別れた妻が居て、消息は分からない。彼は喪失感を抱え、コカイン中毒になり、自殺を企てようとしている。一方、国際寝台列車に乗り込み、パリに亡命しようとしている女性。彼には生き別れた夫が居て、今もその夫の安否を気にかけている。二人の運命はいま、交差しようとしているが、偶然にそれを阻まれ、ルージンは鉄道自殺を図る・・・。

VNにしては珍しいいわゆる神視点の物語。ただ、男性→女性と焦点人物を変化させることにより、誰にも気づかれなかった奇跡を際立たせている。

鉄道自殺のイメージは、当然『アンナ・カレーニナ』【過去記事】が念頭にあったのだろう。結婚指輪のモチーフもポイントで、指から落ちたり無くしたり、二人の関係性を象徴している。

VN作品を読もうとすると、後述の「ヴェイン姉妹」や「暗号と象徴」のように、二つ目の物語が無いかを探してしまう。この頃の作品にはそうした仕掛けはさほどないように思われる。しかし、パリ行きの国際寝台列車に付属する食堂車が切り離され、結果二人の運命を分かつことになる点は、後の時代の視点で見ると、亡命ロシア人の悲劇を暗示しているようでもある。

テクスト外的な事実ではあるが、現実が作品を模倣する例として読むと面白い。

「バッハマン」(1924)

才能はあるが変わり者のピアニストであるバッハマンに愛人ができる。ある公演の日、彼は客席に愛人が来ていないことに気づき、突如公演をキャンセルする。愛人は風邪を引いて寝込んでいたのだが、バッハマンの捜索に駆り出される。結局、バッハマンはホテルの愛人の部屋に戻っていたのだが、愛人は風邪をこじらせて亡くなってしまう。

VN本人の注解には、よく似た実在のピアニストが居ると書いてある。これはウクライナ出身のパハマンというピアニストだそうだ。同じ注解には『ディフェンス』のルージンと関係ありとある。確かに破滅型の天才という点で似るが、ここからは余り読みが広がらないように思う。

本作のポイントはやはり、過剰なまでに語り手の「信頼できなさ」が強調されて書かれているところだろうか。また、①バッハマンについて語る興行師のザック、②ザックからの伝聞を語る語り手「私」、③それを書くVN、という三重構造となっているのもポイントだ。

・・・さらに彼の『三重のフーガ』では、優美さと熱情を込めて主題を追いながら、あたかも猫がネズミを追いまわすようにして、もてあそんだ――主題を解き放つかと見せかけながら、つぎには突然、一瞬の狡猾な歓喜のうちに鍵盤に覆いかぶさり、勝ち誇ったかのようにして主題に襲いかかるのである。(p.215)

語り手が「信頼できない」として、果たして何が作品世界内の真実であるのか確定するのは難しい。例えば、この愛人氏が本当はバッハマンの愛人ではなく、ザックの愛人であり、バッハマンをザックとともに使役していたというような読みも可能そうだ。

ただ、そうして真実を追い回したところで、作品としてあまり面白くないのが悩ましい。

なお、参考文献では、先に挙げたような語りの構造を仔細に分析したうえで、後年の英語時代の長編の語りの構造との比較検討をしている。

・参考文献

杉本 一直「創作する語り手--V.ナボコフの「バッハマン」をめぐって」(ロシア語ロシア文学研究22:1990 p85~101)

+「おとぎ話」(1926)

主人公はモテない男子エルヴィン。ある日モンド夫人こと悪魔に声を掛けられる。夜中の12時までに、好きなだけの女性を選えば、その女性たちでハーレムを作ってやるという。ただし、その数は奇数でなければらない。「笑ゥせぇるすまん」的な展開であるが、当然奇数で終わろうはずもなく、エルヴィンの望みはかなえられずに終わる。

悪魔が登場して、主人公の望みをかなえてやろう等とする点で、ホフマン的、あるいは『ファウスト』的な物語である。作中にも通りの名前としてホフマンの名が登場し、聞こえてくるアリアやむく犬の存在が『ファウスト』を仄めかす。

面白いのは、物語の冒頭、夢など叶おうはずもななく、妄想を膨らませているだけの頃は幸せを感じている反面、いざ願いが叶いかけようとして失敗すると、憂鬱な気分になっている、という対比である。

こんなに便利で、おとぎ話のようなドイツの街に住めるなんて、エルヴィンは幸せもの、本当に幸せものだ。(p.271、冒頭の1段落)

重たい足取りで進むと、両脚は痛み、明日は月曜日で、朝起きるのが辛いだろうと考えると彼は憂鬱になった。(p.285、最終段落)

言うまでもなく、『ファウスト』では人間に与えられた理性の使用が一つのテーマになっている。その対比で読むと、本作は人間に与えられた夢想の力、良く言えば詩的想像力が一つのテーマになっているように読める。それこそが「おとぎ話」の持つ力だということなのではないだろうか。

なお、参考文献では、本作の一部が取り上げられているだけだが、「ヴェイン姉妹」や「北の果ての国」と関連付けて論じられている。両作に引きつけて、エルヴィンを「失敗する読者」として読む読み方だが、私にはやや他の作品に引きずられた読みのように思える。

・参考文献

鈴木聡「来世と彼岸── ヴラジーミル・ナボコフの 「最果ての土地」」(東京外国語大学論集82:2011 p.227-249)

+「恐怖」(1927)

あらすじの説明が難しい!乱暴に要約すると次のとおり。

一人称の語り手は、原因不明の恐怖感に襲われることがある。3年交際した愛人の死という衝撃により、一度はその発作から救われた。愛人のいない今、再びあの恐怖が襲うことがあったら、助かるすべはないということを暗示して物語は終わる。

いやぁ、VNにこんな作品あるんだねと驚く作品。今回取り上げた他の短篇がそうであるように、VNの短篇というとどうしても後期の長編との比較という視座で読まれやすい。こうした傾向はともすると、豊穣であったかもしれない作品群を、ワンパターンな作品群へと狭隘化してしまいかねない。しかし、本作はなかなか異彩を放っている。

まずもって、哲学者の書いた抽象度の高い散文に読める。一読してすぐにサルトルの『嘔吐』を思い浮かべるが、本作のが先行である。VN本人も後年そう感じたようで、巻末の注解でもその旨が指摘されている。

本作で描かれる恐怖は、いわゆるゲシュタルト崩壊が起きるときの感覚のように描出されている。従って、社会的・外在的な恐怖ではなく、主観的・内面的な恐怖であり、踏み込んでいえば、認識論的・存在論的な恐怖である。この点で、アンガージュだとかいうクソ結論*1に至る哲学とは一線を画する。

昔、伊集院光がラジオのフリートークで、ピッポリト・ガウヌーベンの話をしていた。ピッポリト・ガウヌーベンとは、頭が尻、尻が頭の犬(ミニチュアダックスフンド)であり、当然、氏の造語である。ようは、犬をそういうものだと捉えてみる妄想遊び、思考遊びなどであるが、確か氏は、そう思うと急に「怖くなる」と話していたように思う。

子供のころ、・・・眠気のとれない視線を上げると、タコのような目のすぐ下に軽騎兵の黒い口髭を生やし、額に歯をつけた、鼻のない、得体の知れない顔が、ベッドの頭の方から私の上に身を乗り出しているのが見えたことがあった。私が金切り声をあげて起き上がると、すぐさま口髭は眉だとわかり、その顔は母に変わった。(p.291)

やはりこの恐怖は(詩的)想像力の親戚であり、審美主義的態度の裏面なのではなかろうか。

なお、参考文献では、トルストイの「狂人の手記」*2から、「アルザマス恐怖」*3という概念を援用する。その上で、サルトルの他、ガズダーノフ、あるいはドストエフスキーの『分身』などと絡めて本作の「恐怖」を論じており、なかなかに読み応えがある。

・参考文献

諌早勇一「芸術家の恐怖--ナボコフの初期短篇の世界から」(人文科学論集21:1987(3)  p95~104)

「音楽」(1932)

ヴィクトル・イヴァノヴィチがお客に呼ばれると、そこではヴォルフによるピアノ演奏が行われていた。音楽の途中、ヴィクトル・イヴァノヴィチは別の町で結婚し、そして別れた元妻が離れた席に座っていることに気づく。元妻とは、彼女の不倫が原因で離婚となったのだ。演奏が終わると、彼女はドアの向こうに消えてしまった。

元妻に対して、やたらと死だの殺すだのといった物騒な表現が連発されるのが特徴。某所で某先生が、ヴィクトリ・イヴァノヴィチは実は元妻を殺害したのではないか、との説を披瀝されていたが、なるほどそう思うともうそのようにしか読めなくなってくる。

音楽が演奏されている間、ヴィクトリ・イヴァノヴィチと元妻とは二人とも「囚われの身をかこつ運命」だったと表現される。殺害の是非はともかく、元妻の実在性は相当に疑わしく、音楽によって展開されたある種の磁場によって、過去の記憶を想起させられているようにも読める。

また、演奏されている曲名はぼかされており、門外漢であるボーク氏の漠然とした物言いで、「『乙女の祈り』だって『クロイツェル・ソナタ』だってなんだっていい」と言及されるに過ぎない。「乙女の祈り」は、ポーランドの作曲家バダジェフスカの手による曲*4で、チェーホフの『三人姉妹』に登場する。「クロイツェル・ソナタ」はいわずと知れたベートーヴェン、そしてトルストイの同名作を示唆する。両作品とも、不倫がキーポイントになるが、「クロイツェル・ソナタ」では、妻殺しが登場するところもポイントだ。

ここで「乙女の祈り」はピアノ曲であるが、「クロイツェル・ソナタ」はヴァイオリン・ソナタであることを思い出したい。そうすると、ここで演奏されていたのが「クロイツェル・ソナタ」であろうはずはない、という結論になる。ボーク氏の物言いが信頼できるとも限らないが、これはむしろさんざん妻殺しを匂わせたのはミスリードで、妻殺しと結びつかない「乙女の祈り」だった、という読み方もあるのではなかろうか。

「完璧」(1932)

うだつの上がらないイヴァノフは、大学出で地理学を勉強したが、今はダヴィド少年の家庭教師に落ちぶれている。ある日、ダヴィドの母から、少年を海に旅行へ連れて行くよう頼まれる。イヴァノフには心臓の持病があるのだが、言い出せない。海遊びのとき、イヴァノフが目を離したすきに、ダヴィドが溺れるが、それは実はダヴィドの小芝居であった。

今回取り上げた13作品の中で頭抜けてわからなかった作品。ダヴィド君、死んだの?生きてるの?この頃の作品についてまで、全てを疑うように読む読み方も不適切だと思うが、VN作品ばっかり読んでると、どうも表面的な話の筋を疑って読む癖がついてしまう。

表題の「完璧」という表現は、作中に3回程登場する。どうも彼のいう「完璧」とは、世のすべてを体験する/しうる、という可能世界的な概念のようだ。このため、可塑性に富むダヴィド少年は、イヴァノフには「完璧」に見える。イヴァノフはかつて人妻を妊娠させたことがあるが、流産となってしまった。ダヴィドと、その子どもとを重ねているフシもある。

周知のとおり、VN作品には「異界」読みと言われる読み方があるが、ありえたかもしれない別の世界=可能性をテーマにした作品なのだろうか?

+「海軍省の尖塔」(1933)

読者の男が、作者の男に充てた手紙という体裁の作品。読者の男は、作者の作品に書かれている恋愛譚の題材が自分自身であること、そして作者は実は女であることを論詰する。手紙を書いている途中で、読者の男は実は作者が過去の恋人その本人であることに気がつく。

あらすじでわかるとおり、読者と作者が入れ替わるというメタフィクショナルな構造の作品。プーシキントルストイブーニン等、ロシアの作家への言及が多いが、特にポイントなのはアプーフチンという通俗詩人のようだ。

物語の終盤、恋人の別れの場面に話が及ぶ。読者の男は「自分が自殺を仄めかした」と主張するが、女の作品には「男が女を殺そうとした」と書かれていて、過去の行為への解釈の対立が生じているのが面白い。実は、作中引用されているアプーフチン「手紙」及び「手紙への返事」も、「どちらが別れを切り出したか」を巡る物語だそうだ。

また、後述の「ヴェイン姉妹」のように「ミイラ取りがミイラになる式」の構図になっているのも面白い。通俗小説に批判的な読者の男の語る過去の自分の物語が、通俗小説的になっているというところだ。

ところで、この「自分が作品の登場人物になっていることに気づく」という設定は、ガズダーノフの「アレクサンドル・ヴォルフの亡霊」(1947)【過去記事】にも使われている。両者ともに亡命作家で、「現代雑記」に寄稿をしていたという共通点もあるため、影響関係があるのやもしれない。

「シガーエフを追悼して」(1934)

亡くなったL.I.シガーエフの思い出を語る一人称のモノローグ。語り手にとって、シガーエフは恩人。語り手は、かつて彼女に浮気をされ、精神的にボロボロになっていた。そんなとき、手を差し伸べてくれたのがシガーエフだったのだ。

執筆時期が近いせいか、先の「音楽」や「完璧」に似ている。音楽と似ているのは、女性に浮気をされて病んだ男性の語りという点。「完璧」に似ているのは、可能的な世界に関するテーマを抱えている点。

ここで注釈を一つ。これはあれこれ可能なあの女との別れ方のうちの一つにすぎない。私はその他の少なからぬ別れ方を――不可能な可能性の数々を――検討してみたものだ。(p.505)

亡命社会向けに書かれていたことや、当時の歴史状況、そして何と言ってもVNの父君*5のことを考えると、やはり有り得たかもしれないロシア社会と、実際にはそうならなかった現実とが作家に与えた影響は否定できないだろう。

さて、そうかといって正直なところ物語の面白味はイマイチだ。それでも興味深かった部分が二カ所ある。一つ目は次の箇所。

赤カブの葉とクワスからボトヴィニャを作ることができた。(p.509)

この箇所でボトヴィニャが登場して初めて気づいたが、そういえばVNの作品って、食事の描写が出て来る箇所が少ない。ボトヴィニャはロシアの冷製スープ。ブーニンの「日射病」で印象的なシーンを構成し、『ロシア文学の食卓』【過去記事】でも取り上げられていた。

二つ目は、物語最後の文から。

・・・さよならばかりをしているのが私の人生だ。(512)

全ての日本人が思い出すのが(誇張)井伏鱒二訳の「勧酒」、「「サヨナラ」ダケガ人生ダ」だろう。こうした感覚というのも、VN作品の中にはあまり見られないと思われる。

+「独裁者殺し」(1938)

どこかの独裁国家を舞台にした一人称の物語。実は、独裁者その人はかつて、語り手の亡弟グレゴリー友人だった。語り手は、独裁者を殺害する方法を編み出すため、来る日も来る日も彼のことを考え続ける。結局、語り手は独裁者の内的世界と同一化し・・・。

この短篇集で最長だろうか?長い短篇というよりも、短めの中編か長編。それというのも、他の短篇が持っている文体的な緊密さに欠けているからだ。正直、表題作にしては力不足で、どちらかというと駄作の部類だと思う。

それでもこの作品が好きなのは、どこかでVNの政治的な立場に共感するところがあるからな気がする。例えばこういう強制を嫌うところとか。

われわれを隷属させている観念が、・・・どこまでも輝いているにしても、それを押し付けられている以上、隷属は隷属にすぎないことは自明なのだから。(p.589)

あるいは、革命を推し進めることになる人々を「政治的気分が高揚した真面目一途な人々」(p.586)と表現するあたりとか。

オチは凡庸なんだけど、こういう端々の文章が示す感覚が好き。共感のための読書なんかクソ食らえとはいいつつも、結局ある種のモラルセンスの共有は土台として必要なんだと思う。

「リーク」(1939)

フランスで暮らす亡命ロシア人のリークは売れない俳優。一座にも馴染めず、ぼっち生活を送っている。彼は、芝居の最中に突然死したら、なり得たかもしれない何者かになれるかもしれない、といったような妄想を抱いている。ある日、彼は元同級生のコルドゥーノフと再会する。コルドゥーノフは粗暴な男で、かつてリークをいじめていたのだ。コルドゥーノフも順調に落ちぶれ、チンピラに育っている。公演の最終日、リークは第二幕の新機軸の為に、白い靴を買う。ところが、ここでもコルドゥーノフに捕まり、無理やり自宅に連れて行かれる。ほうほうのていで逃げ出すが、靴を忘れたことに気がつく。その靴を取りに戻ると、コルドゥーノフはその奥さんに銃殺されていた。リークの白い靴を履いた状態で・・・

なげぇよ!要約が。これもやはりここまでにも何作かあった、「有り得たかもしれない世界」のヴァリエーション。VN作品の面白いのは、ある種の理想を描きつつも、結局そんな理想なんて叶いっこないよね、というシニシズムを内包しているところ。本作でも、リークが願っていた妄想は、コルドゥーノフによって叶えられる。あるいはもしかすると、コルドゥーノフの姿は、リークの有り得たかもしれない姿だったという解釈もあるだろう。

「ヴァシーリイ・シシコフ」

短篇小説らしくない、変な短篇。それもそのはず、これは短篇というよりもVNによるエッセイ的な位置づけとして掲載されたものだからだ。

巻末の注解にもある通り、この作品には創作に至るコンテキストがある。まず、VNと対立していた感傷的な作家アダモヴィチが居た。VNは彼の鼻を明かすために、いかにもアダモヴィチ好みの詩を創作し、これをヴァシーリイ・シシコフというペンネームで雑誌に投稿したのである。はたせるかな、アダモヴィチはまんまと架空詩人シシコフの詩を激賞した。その種明かし編がこの「ヴァシーリイ・シシコフ」なのである。

内容は、VNがヴァシーリイ・シシコフと出会い、相談などを持ち掛けられた挙句、最後はシシコフが消え去る、というものだ。前提となる騒動を知っている人には、シシコフ=VNであることがわかる、という仕掛けになっている。

VNにしては珍しい、テクスト外に価値をおいて創作された短篇、というよりそもそも短篇小説でさえない。と思われた。

しかし、参考文献によるとどうもそうでもないらしい。曰く、もとのシシコフ作とされている詩は、実はVNが敬愛していた詩人、ホダセヴィチに捧げた追悼詩の意味も込めらえていると読むべきだという。そして、この「ヴァシーリイ・シシコフ」は、亡命ロシア文学社会に所属するVN自身をシシコフに仮託して消し去ると同時に、アメリカへ再亡命する決意を秘めた作品であるという。

詳しくは参考文献をお読みいただきたいが、ホダセヴィチのテクストとの詳細な引き比べの末、説得力の高い議論が展開されており、見事な説である。きっとこれが「正解」なんだろう。

「まずは身分を証明する書類をお見せしなければいけません。そうですよね?」(p.644)

・参考文献

杉本一直「埋葬された種子 : ウラジーミル・ナボコフの第二の亡命」(愛知淑徳大学論集. 文化創造学部・文化創造研究科篇6:2006 p.39-49)

+「ヴェイン姉妹」(1959)*6

悪名(?)高い「ヴェイン姉妹」。どれかの長編の前文で、VNが「私の小説を現実が模倣する云々」と書いていた気がするけど、その好例。この作品は物語の内容よりも、作品を取り巻く現実の物語の方が面白い。

まず、この物語の語り手は、VNの主人公にありがちな「実は読解力・理解力の低い人物」である。その語り手が、ヴェイン姉妹からのメッセージを読み取れない、というのが物語のキーポイントになっているのだ。

しかし、何重もの仄めかしがなされているにも関わらず、この物語を受け取った担当編集者のホワイト女史*7にはそのVNの意図が伝わらない。結局、VNは自作の仕掛けの解説という名の弁明を余儀なくされた上、最終的に原稿は却下されてしまったのである。

この「ヴェイン姉妹」に施された最大の仕掛けとは、アクロスティックあるいは折句といわれるヤツである。若島先生は伊勢物語からいわゆる「かきつばた」であると説明しているが、現代の若者には「タテ読み」と言った方が伝わりやすいだろうか?いろは歌の「咎無くて死す」のようなアレである。

ヴェイン姉妹の姉のほう、シンシアは降霊術や神秘主義にハマる。その流れで、「物語の最終段落を八文字飛ばしで読んでいくと、隠れたメッセージが見つかるんだ!」等と言い出すようになる。実は、これを本作「ヴェイン姉妹」の最終段落でやってみると、隠しメッセージが現れるのだ。その内容こそ、シンシアとその妹シビルから語り手に向けたメッセージなのだ(もちろん、語り手はそれに気づかない)。

結局、この作品は、読者に物語が正しく伝わらないことに配慮して、該当文字を太字処理することや、あとがき等でこの仕掛けを説明するという手当を付す条件で出版された。

この作品外的な物語は、「ヴェイン姉妹」、引いては他のVN作品の読解にあたり、更なる重要な問いも含んでいる。それは、果たしてこの作品を含むVN作品は面白く、価値ある作品なのか?という問いである。短篇「ランス」にも描かれているとおり、本来VNは推理小説のようなものに否定的である。

確かに、折句のような仕掛けを理解した上でなお見えてくるテーマ性(ディスコミュニケーションの問題、現実主義と神秘主義の対立等)があることは否定できない。しかし、この作品のミソが、折句のような大ネタを含む謎解き的な仕掛けにあることもまた事実だろう。

折句以外の仕掛けも見てみよう。例えば、ヴェイン姉妹の妹はシビルという名前である。作家の要求する読者像は、この時点でオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』に出てくるシビル・ヴェインを思い出す読者である。さらに、ワイルドが"Sibyl Vane"であるのに対し、こちらの作品では"Sybil Vane"とyとiが入れ替わっていることにも気づかなくてはならない。あるいは、『フィネガンズ・ウェイク』に登場する折句的な登場人物*8、アナ・リヴィア・プルーラベル(通称ALP)と、さらにそれがリフィー川の象徴であることも知っていなければならない。

VN作品の魅力はこうした謎解き的要素にあるのではない、というのであれば、訳本ではすべて詳細な注が付されるべき、というのが結論になるだろう。しかし、それはそれで興醒めだと考えるVNラヴァーも多いのではないだろうか。

実際、私が『淡い焔』の感想記事をいつまでも書けないでいるのも、どこまでのネタに踏み込んでいいのか迷っているからである。それは反面、同作の大ネタの一つである、「宝石の在処」を見つけられたときの快感が、私の同作への評価を高めたことをも意味している。

VNの芸術的態度はどこまでも原理主義的であるが、読者の側がそれを貫こうとする陥穽にはまる。それはまるでその作品の中身そのもののようであり、いつまでも作品の中と外とを往還させられる気分になる。

なお、参考文献では、ホワイト女史との一連のやり取りなど、作品の外にまつわる物語が丹念に紹介される。その上で、大ネタを理解した上での作品の主題の検討が丁寧になされている。大変に説得的であり、恐らく、本作の読解の正解、あるいは作者の意図通りの読みであると思われる。鈴木先生はVNの多くの短篇について論文を書かれており、逐次参照させて頂いている。この「ヴェイン姉妹」についてのものは、その中でも筆頭格で面白かった。

・参考文献

鈴木聡「指標と伝言 -ヴラジーミル・ナボコフの「ヴェイン姉妹」」(東京外国語大学論集87:2013 p.121 -144)

秋草俊一郎『ナボコフ 訳すのは「私」―自己翻訳がひらくテクスト』第3章

若島正『乱視読者の英米短篇講義』p.81-

 

・「ナボコフの一ダース」はこちら

・VNの長編へのリンクはこちら

*1:はい、アンチです。すいません。

*2:ゴーゴリの『狂人日記』ではない。念のため。

*3:スネ夫のママではない。念のため。

*4:CM曲やBGMとして、誰しもが必ず聞いたことがあると思われる。

*5:自由主義的な立憲君主党"カデット"の重鎮。彼の導きで自由主義国家ロシアが誕生していたかもしれないし、それが誕生していたなら、主導的な地位にあったかもしれない人物だった。

*6:執筆年は1951

*7:好んでは使わない単語だが、作中のテーマが男女間のコミュニケーションの失敗と読む余地もあるため、敢えて性別を明示するために用いた。

*8:名前で登場するよりも折句として仄めかされる箇所の方がはるかに多い