ウラジーミルの微笑

海外文学・世界文学の感想を長文で書くブログです。池澤夏樹世界文学全集の全巻マラソンもやっています。

『路上の陽光』ラシャムジャ/星泉訳

ナツメロのように聴くあなたの声はとても優しい

ぼくが子どもの頃、村の年寄りたちは日向ぼっこをしながらマニ車を回していた。その頃はまだ、時という風は今ほど速くはなかった気がする。昼と夜は年寄りたちが回すマニ車のように繰り返しやってきて、果てしなく続くかのようだった。(p.68)

<<感想>>

『『その他の外国文学』の翻訳者』【過去記事】を読んで気になっていたチベット文学。近刊の『路上の陽光』を読んでみた。

チベット文学です、以上、の情報しか知らずに読んだから、読み始めるまで短編集だということも、作者の性別も知らなかった。

この作品集には8つの短編が収録されている。いつもならこのまま各短編の感想をずらずら書くのだが、この短編集には色彩が似通っている収録作が多く、作者の個性がくっきりとあらわれている。このため、今回は共通点を先出ししてから、各作品の短評を書いてみたい。なお、特に気に入ったものには★印をつけている。

路上の陽光

路上の陽光

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1.ストーリー

ストーリーは至ってシンプル、古典的、あるいは19世紀的と言ってもよいかもしれない。変に実験的だったり、モダンかぶれしていなくて極めて読みやすい。

各作品の項目でも少し触れるが、逆に言ってしまえばかなりベタで、予測可能性の高い展開である。ベタがお好みの人にとってどうかは知らないが、この作品集の魅力は他のところにありそうだ。

なお、ストーリー的なヒキの強い作品ではないと考えるため、今回は特にいわゆるネタバレに気を払っていない

2.文体

作者の技巧が光る部分。特にモチーフや印象的なフレーズのリフレインの扱いが上手い

重視されるモチーフとしては、タイトルにも挙げられている陽光の他、風、水、太陽、月、星、家畜(羊や山羊など)など、自然由来のものが多い。西欧の大家のような装飾過多とは対照的に、こうしたモチーフとリフレインを上手に使いつつも、素朴で温かみのある文体に仕上げている。

視覚を中心に、五感に直接的に訴えかける表現が多く、作者には失礼かもしれないが、アニメ映画の脚本を書かせたら素敵なカットが描けそうだ。

3.支配・被支配

物語自体のトーンは逆境にあっても明るく、力強かったり、故郷を思うような温かみのあるものが多い。

しかし、各作品に共通して描かれているのが、支配―被支配の構造だ。9つの短編の中で、中国共産党チベットに対する行動が描写されているものは1作しかない。しかし、郷愁あるいは伝統的な生活に対する回顧と、支配―被支配の構図が同時に描かれると、現代のチベットが描かれた政治状況を思い返したくなる。

『スモモの木の啓示』【過去記事】の感想の中で、政治批判が前景化しすぎていてキツいという趣旨のことを書いた。翻って本作は、仮に困難な政治状況下のチベット(人)にある複雑な感情を文学的に昇華したものであるならば、見事という他ない。

4.マージナルの逆襲

異文化を体感するというのは、海外文学を読む魅力の一つだ。

ところで、現代の世界情勢の中で、チベットが辺境国であることは明らかで、チベット語が周縁的な言語であることも明らかだろう。しかし、世界文学の場では、そのマージナリティこそが武器ともなる。

羊飼いと携帯電話が同居していたり、飛行機とマニ車が同時に出てきたりするこの違和感は、むしろ同国人に対してよりも、翻訳を通して読む「大国」の我々にこそ、そのテーマ性を突き付けてくる。

 

「路上の陽光」

表題作。おじさん的にはかなり眩しい、村から都市に出てきた出稼ぎ労働者プンナムと同じ出稼ぎ労働者ランゼーの恋が実・・・らない話。物語の冒頭、ヒロインの赤い帽子が川に流されてしまうが、もうその時点でオチが予言されているようなもの。

おじさん的には村下孝蔵の「初恋」*1だが、今なら「秒速5センチメートル*2的な?知らんけど。

あるいは、男性側から見て他の男性にヒロインを奪われている点では、ドストエフスキー先生大好物*3NTR展開と言ってもよい。

それらの作品と決定的に違うのは、焦点化されているのが女性側だという点。

ランゼーは、雇い主の男性ジグメに「純潔を奪われ」た結果、「自分は橋の下を流れる川のように薄汚れている気がして」、プンナムを捨ててジグメについていくことになる。

前時代的な感覚だなぁと思う反面、現代でも世界中の至るところで共有されているだろう感覚かもしれない。

全体的には実らなかった初恋に軸足がある物語だが、経営者・都市を象徴する人物が、労働者・村落を象徴する人物に対し、支配しあるいは奪い取る関係性が描かれているとも読める。

それにしても、基本構造が『貧しき人々』と良く似ている。金持ちの象徴が乗り物である点(馬車と四駆)、結末部でヒロインがその乗り物に乗せられて去っていく点もそっくりだ。影響関係があるのだろうか。

「眠れる川」

「路上の陽光」の後日譚。なお解説によると、もう1作追加して3部作となる予定だそうだ。

ランゼーに去られたあとのプンナムが、別の女性ペルヤンと出会う話。この頃プンナムは三輪タクシーの運転手として働いているが、物語の冒頭で、そのタクシーを四駆に衝突させてしまう。もうこれでオチが予測できそうなものだがそこは置いておこう。

一方のペルヤンは「眠れる川」という名前の洗車場で働く。風を切って町を走るプンナムと、水しぶきを上げるペルヤンの対比が実に美しい。マニ車を回すプンナムの常連のお婆さんや、プンナムがペルヤンに差し出す母特製の干しチーズ等、牧歌的なディティールが漂い、「路上の陽光」の苦さを浄化する。下記の引用箇所などは、視覚に強く訴えかける、とても美しく清新な恋の表現だ。

三作目がどのような色調になるのかは不明だが、ベートーヴェンの「月光」の第二楽章のような作品だ。

ペルヤンはホースを手に取って、片方の手で、肩から胸にかかっていたお下げを後ろに退けた。それからスイッチを下ろすと、ホースにしばらく溜まっていた水が一気に噴き出し、三輪自転車の車輪のスポークの一本一本についていた泥が洗い流されて、たちまちぴかぴかになった。(p.44)

「風に託す」

この作品集の中でもかなり短めの作品。地方から大都会へ出て行った若者が、帰省して昔馴染みの老僧と話をするだけの物語。また、この作品集の中では唯一、比較的はっきりとした形で、チベット併合、チベット動乱のイメージが漂う。

仏僧と主人公との思い出話が軸であるため、宗教色も強い。大抵の文学作品を読むと、この宗教色の強い場面というのは共感を覚えにくい点である。それが例えば中国や韓国の作品であっても、儒教的要素が強いとむしろ現代の日本人にとっては家父長制や集団主義と結びつきやすい、抵抗感のあるものとして映る。

ところが、この短編でビックリするのは、宗教色の強い短編であるのにもかかわらず、びっくりするくらい受け入れやすいお話である点だ。

よく考えなくても当たり前、チベットって仏教国なんですよね・・・。インドでも仏教徒が少数派である現在、チベットが数少ない宗教的シンパシーを感じられる国だということを思い知らされる短編。

「西の空のひとつ星」

この作者の腕前が見事に出ている作品の一つ。

申し訳ないがやはりストーリーは極めて平凡。父子の物語なのだが、父親は強権的でかつ男らしさを教え込もうと考える、日本でいうところの昭和オヤジ。かたや子ども側は、キツい羊飼いの暮らしに忌避感を感じていて、父に対する反発心を抱いている。この父子が一つの試練を通して、信頼関係を確認するような物語だ。こういっちゃなんだが、入試問題か教科書かにでも出てきそうな、無難な物語に仕上がっている。

この作者の腕前は、冒頭にも掲げたとおりモチーフ使いの妙だ。本篇ではタイトル通り、星が重要な役回りを果たしている。これがお手本のように上手い。凡庸なストーリーが、この文章的な仕掛けのおかげで光り輝いて見えるから不思議である。

なお、全体としてハートウォーミングなテイストではあるが、冒頭で、父が抑圧者・支配者として描かれていることも見逃してはならない。

「懐中電灯はいらないよ。星の光で道がよく見えるもん」(p.93)

★「川のほとりの一本の木」

寄宿学校×ヒロインを守るための決闘、というお話。こればっかり強調して本当に申し訳ないが、もうどれだけベタなのかと。でも読んじゃう。

寄宿学校というとヘッセやケストナーを思い浮かべてしまうが、最近だとハリーポッターなのだろうか?ヘッセやケストナーでは男子学校のイメージだが、ハリーポッターは共学だよね*4?本作も共学設定で、中学生くらいの子どものための寄宿学校である。

そして、いじめっ子という表現がヌルいくらいの、支配欲にかられ、クラスを支配しようとする同級生が登場する。

光り輝くのはヒロインのセルドン。ガリ勉優等生な上に、クラスでただ一人、支配者の暴力に抵抗しようとする心根の強いキャラという設定で、もうこれは作者が完全に読者を萌やしに来ている。

ストーリー的な主眼は、決闘の申し込み~決闘の当日までの登場人物やクラスメイトの心中の変化にある。

父権支配の象徴に対し、知性や勇気、団結で抵抗する物語と読むことも可能で、支配―被支配の関係が描かれることが多い作者の作品の中で、唯一抵抗が描かれる物語でもある。また、支配する側も抵抗する側も、それぞれ物語を利用していることを見逃してはならない。

ところで、露文党的にはどうしてもプーシキンの影がチラつくんですが、気のせいですか?

俺様はセンチェン王、王は齢十三歳でリン国の王座に就いたのであるから、俺様はこの中学の王座に就いたも同然、今後クラスの男子全員俺のことを崇拝し、俺様の言う通りに行動しろと言うのだった。(p.100)

「四十男の二十歳の恋

空港にて、長い出発待ちの間、四十男が二十歳の頃の恋を思い出す話。幸い、ビートルズは流れてこない。それにしてもラシャムジャさん、初恋系の話好きねぇ。

男は妻子があって傍目には幸福な暮らしを送っているが、どうも昔の恋を引きずっているようだ。そこに、突如として当の元カノ本人が現れる。幸い、片足を引きずってはいない

「泊まるんなら西寧で一緒に一泊しない?」クンサン・ラモは笑いながら言った。(p.145)

大丈夫、彼は村上春樹ではないから、そういうことにはならない。いやそれにしても、これで読んでなかったら逆に凄いと思うから、きっとオマージュなんだろうなぁ。

「あたしは辛いときはチョカン寺にお参りに行って五体投地をして、巡礼路を回ることにしてる。・・・」(p.147)

余談。五体投地という単語を見たのは、たぶん『ベルセルク』以来。

★「最後の羊飼い」

強いて選ぶならこれがこの作品集のベスト。ストーリー的にもオリジナリティがある上に、この作家の魅力が凝縮してあらわれている。

文字通り、最後の羊飼いである少年の物語。皆が羊飼いを廃業して近代的な生活へと鞍替えする中、少年は断固として羊飼いを辞めない。そんなある日、少年は大事な家畜を盗まれてしまう。少年は盗人を追う。盗人が尻尾を出すところを捕まえようと、何日にもわたり、山中双眼鏡を使って、谷合の村落の見張りをする。見張りをする中で、反対の山の中腹に、崖から降りられなくなって衰弱しつつある山羊を発見する。少年はその山羊に強い哀れみの感情を抱くが・・・。

お得意の恋愛描写は無いが、父子関係や、自然描写、仏教的な共生の感覚、伝統的な生活と近代的な生活の対比など、作者が各短編で取り上げる様々なテーマが結集している。

「遥かなるサクラジマ」

他の作品とだいぶ毛色が異なる作品。舞台は日本だし、主役は亡命2世という複雑な過去を負っている。恋愛譚ではあるが、モラハラ夫から逃げる中で出会った男性との恋という、これも他作品とは違った色どりである。

さてこの作品、主役の女性は亡命2世のチベット人女性だが、モラハラ夫役は日本人男性である。ここに、この作品集の重要なテーマの一つである、支配―被支配の関係性が描かれている。

ところで、この支配する側の男性が日本人であるため、日本人に対する著者のマイナスイメージを読みとる向きもあるかもしれない。しかし、このタカシという日本人が象徴しているのは、むしろ近代性のほうである。

何の話をしても神経質そうに眼鏡を直すところや、何をしていても腕時計で時間を気にするところ、ノートに日付を細かく書き留めたりする習慣、そして夜寝るときも、十時ぴったりになると必ず電気を消して就寝するという日々の行動に耐えられないのだった。(p.232)

そして、この近代性に対置されるのがサクラジマなのである。主人公は、力強いサクラジマの噴火の様子を見て、自己を取り戻すことになる。

この作品で傑出しているのも、やはり自然のモチーフを使用した描写だ。印象的な部分を引用しておく。

彼女はしばしの間、自分の心の中から抜け出した。長い間引きこもっていた彼女は、太陽のもとに出てきた。彼女はいわゆる愛というものをやっと見つけたんだと思った。(p.234、強調は引用者)

・・・真夜中にすすり泣く母の泣き声を思い出した。彼女は骨壺を手に抱えたまま空を見上げた。厚い雲に覆われた空から、ひんやりと冷たい雨粒が落ちてきて、彼女の涙と合わさって頬がすっかり濡れた。(p.238、強調は引用者)

 

お気に入り度:☆☆☆

人に勧める度:☆☆☆

 

・中国のド前衛短編集はこちら

<<背景>>

最も古い表題作が2010年、最も新しい「遥かなるサクラジマ」が2020年の作品。

作者は1977年生まれ。『雪を待つ』という長編小説の翻訳が2015年に出ているようである。

本作品集の中でも、「遥かなるサクラジマ」は、本書版元の書肆侃侃房の招きで著者が来日し、訳者である星泉氏とともに九州を訪れた際に着想をされた作品だそうだ。訳者解説にはその詳しい顛末が書かれている。

<<本のつくり>>

文章はとても平易で自然な日本語として訳出されており、これぞ21世紀の訳文といったテイストである。文化的に馴染みが薄い単語については、適宜割注が付されている。もともと訳注は大好物であるが、チベット文化に馴染みの薄い私にとっては、今回特にこの割注が面白かった。

よく、文化の違いは言語に現れるという。例えば、その言語話者にとって重要な文物には豊富な語彙が用意される。お米、ごはん、玄米、稲・・・英語では全てriceだ。

本書の訳文の見事なところは、そうした原語の持つ文化的特徴を生かして訳出されているところである。

みなしごだった赤ちゃん羊[ルグ]を、自分の弁当を分けてやりながら、育ててきたのだ。大事に育てた赤ちゃん羊は次第に成長して二歳雄[トンガ]となり、今や鋭く尖った二本の角を伸ばし、真っ白い毛をふさふささせた大人の羊[シャブセン]になった。(p.160、「最後の羊飼い」より)

[ ]内は全てルビで表現されている。この短編では主人公の羊飼いと羊との心の繋がりが表現されており、ここで全て違う単語が充てられているのはとても重要だ。

また、星が重要なテーマとなっている「西の空のひとつ星」でも。

父さんはぼくに、あれは夕方、牛[ゾ]をつなぐ時刻に現れる一番星で、ゾつなぎ星というんだと教えてくれた。この星はまわりのすべての星々を見守っているのだそうだ。(p.92)

文化と結びついた素敵な呼称であり、これを特定の星と同定して訳出することなく表現されている。

*1:モデルになった女性とご対面!というビデオを見たことがあるが、流れる空気の微妙ないたたまれなさにいたたまれなくなった。

*2:見てません。

*3:『永遠の夫』、『貧しき人々』、『白夜』、まだあったよな。

*4:読んでない